発行日   令和4年9月9日

編集/発行 銅駝史料館委員会

1935年の鴨川大洪水と『児童文集 銅駝学報』

白木 正俊(京都大学大学院文学研究科 非常勤講師)

はじめに

ここ10年くらいのことでしょうか。毎年夏になれば、日本各地が凄まじい豪雨に見舞われ、これまで予想しなかった大規模な河川の氾濫が起こると感じるようになったのは。岡山県倉敷市真備町の高梁川が氾濫した2019(令和元)年7月の西日本豪雨、熊本県球磨川が氾濫した2020年7月の九州豪雨などは、その惨状が大きかっただけに、まだ新しい記憶として残っている人も少なくないのではないでしょうか。

私たちが暮らす銅駝学区も例外ではないでしょう。鴨川上流において「線状降水帯」と呼ばれる大雨が継続すれば、鴨川下流右岸の銅駝学区にも、大きな浸水被害を与えるに違いありません。では、そのような事態は、過去の歴史において生じていなかったのでしょうか。答えは「ノー」です。今から87年前の1935(昭和10)年6月末、降り続いた雨は、鴨川を氾濫させて大洪水となり、京都市中に少なからぬ被害を及ぼしました。 


1.『京都市水害誌』に記された鴨川大洪水

この大洪水について、翌年3月、京都市役所は『京都市水害誌』と称する報告書を発行しました。同書の冒頭において、その惨状は次のように記されています。

六月二十七日より降り初めた雨は二十八日夜に入り愈々激しくなり、更に電雷を交へて豪雨と化し、二十九日朝に亙り車軸を流す大雨継続、午前十時迄の雨量実に二六九・九粍〔㎜〕に達した。如斯は京都測候所開設以来の記録にして、市内を貫流する諸川は何れも溢水氾濫し、濁水滔々として市街地を流下し一面の泥海と化した。阿鼻叫喚その惨状眼を掩はしむるものあり〔中略〕死傷者百に垂々とし、全半潰若くは流失せる家屋四百八十余、浸水戸数四万三千余に達し、浸水面積千百余万坪、本市平地面積の約二十七%、罹災者無慮十数万を数へ、被害額実に数千万円に上る〔中略〕殊に鴨川は二十九日午前〇時半頃早くも増水を初め、洪水床下に達する程度となり、午前二時の強雨により一層増水、午前三時より五時の間に上流上加茂地先の堤防より溢水する部分を見るに至つた。次いで午前六時半より七時半頃には〔中略〕上加茂下鴨一帯尺〔約30cm〕余浸水し〔中略〕本流市街地帯に於て午前五時既に家屋の浸水一米〔m〕に及び、七時半一・五米に達して、中京区下京区の沿岸一帯を河流と化し〔後略〕(1-2頁)。


 すなわち、この報告書から、➀ この洪水は、明治初期の京都測候所の開設以来、最も降雨量が多い大雨によりもたらされたこと、➁ 市内を貫流する河川のほとんどが溢水または氾濫し市街地を泥の海と化したこと、➂ 被害は浸水戸数43,000余戸で、浸水面積は京都市の平地面積の27%にあたる1,100余万坪に及ぶこと、➃ 7月29日早朝から鴨川は上流から増水溢水し、市街地では午前5~7時半に1~1.5mの浸水に達したこと、などが読み取れます。このように、この洪水による被害は非常に大きく、市内の広範囲に及ぶものでした。

 では、銅駝学区とその周辺に限定すれば、この洪水の被害状況について、この報告書からどのような点が判明するでしょうか。

 第一に、学区南東部の上大阪町・上樵木町等では、床上浸水・床下浸水の被害を受けて泥土が夥しく堆積し、納涼床の全部が流失し、その被害の規模は、中京区では立誠学区・朱雀学区に次ぐものであったこと(50頁)。

 第二に、住居のうち、床上浸水が126戸、床下浸水が50戸であったこと(51頁)。

 第三に、6月29日における鴨川筋の最高水位の時刻について、二条橋で7時過ぎ、三条大橋で8時~10時であったこと(13頁)。

 第四に、6月29日午前に起こった鴨川に架かる各橋の被害については、全長116mで木橋の夷川橋が7時20分、全長120mで木橋の二条橋が8時30分にそれぞれ流失し、全長100mで鉄桁木橋の三条大橋が8時31分に17mにわたり一部流失したこと(83-84、90-91頁)。

 第五に、寺町二条下ルの妙満寺では、土塀が倒壊し、その被害額は500円であったこと(37頁)。

 第六に、6月29日午前7時30分には、河原町・東山間の二条通と三条通において、市営乗合自動車(現在の市バス)の運転ができなくなったこと(103頁)。

 これらのことから、銅駝学区南東部の鴨川沿岸において浸水被害が大きかったこと、鴨川架橋の夷川・二条の各木橋や納涼床は全流失したこと、三条大橋でさえ一部流失を免れず、そのため市営乗合自動車は不通となったこと、などが判明します。逆に言えば、銅駝学区の北部や木屋町通以西では被害が比較的少なく、河原町通では市電が支障なく運行されていました。幸いにも、銅駝学区から死傷者は出ず、小学校の施設についての被害も報告されていません。このように『京都市水害誌』からは、銅駝学区とその周辺にもたらされた洪水の客観的な被害状況を読み取ることができます。

写真 鴨川大洪水で流失した夷川橋を東詰から望む。 1935年7月頃

出典:京都市歴史資料館所蔵「京都市都市計画局旧蔵写真」a7200401

 木製の夷川橋の中央部が橋脚ごと流失し、東西両詰の親柱と橋欄だけが残っています。右奥に見える銅駝尋常小学校では、北側が鉄筋コンクリート造であったのに対し、南側は木造のままであった様子がうかがえます。左奥の白塀の内側は藤田伝三郎男爵邸で、後にホテルフジタ京都の饗宴施設「夷川邸」として活用された平屋の和館の大屋根も見えます。


2.『銅駝学報』の創刊と『児童文集 銅駝学報』への改称

 では、当時の人々は、この洪水をどのように受け止め、理解したのでしょうか。その一端を、本史料館に残されていた『児童文集 銅駝学報』第二十四号、1936年から知ることができます。

 この文集は、もともと1913(大正2)年に『銅駝学報』の名称で創刊され、銅駝教育賛助会が「学校教育の一班を父兄に示し、学校と家庭の連鎖を保ち、益々児童教育の済美を期せんとす」る目的で発行したものでした。教員が中心に執筆し、遠足・修学旅行等の学校行事や、図書館・植物園等の学校施設での活動を記したものが主に掲載されていました。よって、同誌は少なくとも学校での児童の活動や取り組みを定期的に保護者に向けて知らせていた広報誌と思われます。一方、その掲載内容において、児童自らが記した作文や書画は、紙面全体の4分の1程度を占めるに過ぎませんでした。

 ところが、同会が創刊10周年を記念し1922年に発刊した第十号から、その構成は大きく変わります。まず、書名の冒頭に「児童文集」を冠し、『児童文集 銅駝学報』に改称しました。作文を中心に、詩・書画を含め、児童自らが書き記した作品が、掲載紙面の大半を占めるようになったのです。第十号では、全55頁のうち、これらの作文・詩・書画が46頁(約84%)を占めていました。同号の冒頭で、編者はこのように編集方針を変更した理由を次のように記しています。

 拾年前に比べて最も教育上に進歩を来したものは個性教育の尊重であります。教育の根底は個性に適合したものでなければならぬといふ思潮が実現されて来ました。〔中略〕今日は理論に酔ふてゐる時ではありません。だから月並式に形式な理屈などを並べることを止して、それよりも児童成績の一部を上梓して御覧に入れやう。そして真に児童を了解して下さる御参考にも供したいと思ひました〔後略〕。

 大正期も半ばを迎え、自由主義教育の思想が京都市の初等教育界にも徐々に浸透し、児童一人ひとりが異なった個性を持つ人間であることを重視するようになったのです。そのため、『銅駝学報』に掲載すべき記事も、教育者の立場から見た一般的で抽象的な教育論ではなく、児童自らが作成した個別の作品こそが教育的に価値がある、と考えられるようになりました。こうした教育姿勢は後も引き継がれ、本史料館に残る最新の1938年発行の第二十六号まで貫かれていたことを確認できます。

 

『児童文集 銅駝学報』第二十四号に記された鴨川大洪水

 1936年発行の『児童文集 銅駝学報』第二十四号では、1~6年生までの児童235名(全校児童の約32%)が記した作文と短歌が掲載され、その点数は計232点(作文1点は4名の合作)に及びました。多くの児童が自分にとって身近な人物や動植物、年中行事・学校行事での体験をテーマに設定したのに対し、鴨川大洪水をテーマにした児童は、3・4・5・6年生男子の各1名、6年生女子の4名(うち2名は短歌)の計8名でした。では、同号で、児童は鴨川大洪水をどのように描写したのでしょうか。

 まず、3年生の男子児童の作文を紹介します。

 ゴーウ、ゴーウと言ふ音に、ふと目をさまして、外を見ると、びつくりした。加茂川とそ水が、まるで海のやうになつて、どろ水かものすごい勢で、橋にぶつかつてゐます。僕は思はず、「お母さん、どうしやう。大へんだ。」と大声で言ふと、「とてもあぶないから、外へ出てはいけません」とおつしやいました。其の中にも、いぢ悪く水はぐんぐんふえて来ます。「一体、どうなることだらう。」と思ふと、もうこはくて、じつとしてられません。大きな丸太、たたみ、すみ俵などが、橋ぐひにつきあたる度に、パツト水がとび上ります。多分二条の橋でせう。〔中略〕雨はますますはげしく降ります。水はふえる一方です。とうとう、家の中へどろ水が入り出しました。うちの中の者は、一生けんめいで、「早く、早く。」「あゝぬれる、ぬれる。」と叫びながら、目についた荷物から二階へほり上げました。しばらくすると、頭からすつぽりと外とうをかぶつた、じゅんさが「早くお逃げなさい。あぶないから。」と言つて来られましたので、僕と姉さんは、先に急いで逃げました(21-22頁)。

 ➀ 轟音に驚き起床すると、鴨川が泥水で海のように増水し、丸太・畳・炭俵などが二条橋の杭に次から次へと流れ衝突して水を跳ね上げ、それに非常な不安や恐怖を感じたこと、➁ 激しい雨量の増加とともに自宅が泥水で遂に浸水し、家族とともに急いで一階の荷物を二階へ移動させた後、警察官の指示に従い、外套を被って姉とともに避難したこと、などが判明します。

 次に、4年生の男子児童の作文です。

「ブーブーチン/\」といふ、けたゝましい消防自動車の警鐘に眼が覚めた。まだ雨は止んでゐないらしい。〔中略〕もう六時だ。起きようと思つたとたん、ぱつと電灯が消えた。七時三十分頃家を出た。まだ雨は強い。河原町線はちやうど川のやうになつてゐる。夷川通まで来ると橋が通交止になつてゐる。どうしたのかと思つて行つて見ると、橋が三分の二程なくなつてゐる。真赤になつた泥水がすさまじい勢で両岸に一ぱいになりながらごう/\と流れてゐる。大きな材木が木の葉のやうに流されて来る。こんな加茂川を見るのははじめてだ。教室に来て見ると誰かゞ「ポント町は屋根まで水つかりやぞ。そやさかいにな、家の人がみんな二階へ上つてはんのやぞ」と大きな声を出して言つてゐた〔後略〕(43-44頁)。【文中の/\は2文字のカナを繰り返す「くの字点」記号

 ➀ 6時に消防車のサイレンで目が覚め、起きようとすると停電し電灯が消えたこと。➁ 7時30分頃に豪雨で川のようになった河原町通を通り登校すると、夷川橋の3分の2が流失して通行止めになり、鴨川では大きな材木が流れ泥水が両岸まで溢れていたこと、➂ 来校して、先斗町では屋根上まで浸水したため住民が2階に避難したことを先に登校した児童から知ったこと、などが読み取れます。

 最後に、6年生の女子児童の作文です。

〔前略〕あの朝「京阪電車が動かぬやうでは遠足はだめです。」とのお母さんの言葉に雨をうらみながら自動車で出かけました。三条大橋まで来ましたが、大水の為に渡れぬとの巡査の言葉で、しかたがなく車からおりてこは/\川を見ると、にごつた水がごう/\と音を立てて流れ、橋までひびいてゐます。今は雨がにくいばかりか、恐しくなつて来ました。其処から川端通を丸太町の橋まで遠回りして学校につきました。其の途中の恐ろしい有様は一生忘れることは出来ない。林木をのんだにごつた茶色の水がごう/\と川いっぱいに流れてゐる有様、川端の二階から声を上げて叫んでゐる人の姿、〔中略〕ほんたうににくらしく恐ろしい雨でありました(84-85頁)【文中の/\は2文字のカナを繰り返す「くの字点」記号

 ➀ 洪水のため京阪電車が不通となり、予定していた遠足が中止になったこと、➁ 登校するため自動車で三条大橋まで来るものの、警察官の進言で渡れず、川端通を丸太町橋まで遠回りして登校したこと、➂ 材木を飲み込み、濁水が轟音をたてる鴨川や、川端通の民家の2階から叫んでいる人の姿を目にして、大雨に対して激しい恐怖と憎悪を抱いたこと、などが読み取れます。

 これらの作文から判明した洪水時における人々の多様な行動、情報の伝達、洪水に対し抱いた激しい感情などは、何れも前掲の『京都市水害誌』からは十分に読み取れません。本史料館に保存されていた児童文集だからこそ判明しえた独自の歴史にほかなりません。このような子供達が記した記録を残し伝えていくことは、何よりも今後に起こる災害への教訓になるのではないでしょうか。

【参考文献】

無断転載・複写を禁じます

『銅駝史料館だより』第8号のPDF版(4ページ)

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