出典:『銅駝校150年のあゆみ』(令和元年11月10日発行)銅駝自治連合会・銅駝校150周年実行委員会
① 行願寺門前町 [ぎょうがんじもんぜんちょう]
町名の由来である行願寺は、平安時代中期の寛弘元(1004)年、行円上人(ぎょうえんしょうにん)が願人となって建立されたため、そう名付けられました。行円上人は鹿革の衣をまとっていたことから革上人とも呼ばれていたので、行願寺も革堂(こうどう)と呼ばれるようになりました。
② 藤木町 [ふじきちょう]
町名の起源は不明です。一説には、鵺(ぬえ)退治で知られる源頼政(みなもとのよりまさ)(1106-1180)の屋敷がここにあり、その敷地内にあった藤の巨木にちなむといわれています。
③ 常盤木町 [ときわぎちょう]
町名の起源は不明です。中御門天皇(在位1709-1735)から下御霊(しもごりょう)神社に寄進された重菊鉾(かさねきくほこ)を末永く預かることになったため、不変を意味する常盤と名付けられた、といわれています。
④ 東椹木町 [ひがしさわらぎちょう]
かつてここには見性寺(げんしょうじ)・要法寺(ようぼうじ)などがあり、御霊の辻子より北は裏寺町と呼ばれていました。江戸時代中期の宝永五(1708)年に起こった、いわゆる宝永の大火の後、皇宮の土地を広げるため、椹木町烏丸東入益安町(ますやすちょう)の住人が移住したことから名付けられました。
⑤ 梅之木町 [うめのきちょう]
町名の起源は不明です。ここにはかつて寂光寺(じゃっこうじ)・妙伝寺(みょうでんじ)などがありましたが、宝永の大火(1708)によって焼失した後、新たに住宅地が開発されたため、新地と呼ばれました。
⑥ 橘柳町 [たちばなやなぎちょう]
宝永の大火(1708)の後、焼失した要法寺跡地に開通した新烏丸通の東側に作られた橘町と、西側に作られた柳町が、明治二(1869)年二月に合併して今の名称となりました。
⑦ 西革堂町 [にしこうどうちょう]
町名の起源は不明ですが、西側に革堂があることから名付けられたといわれています。梅之木町と同じく、ここも寂光寺・妙伝寺の敷地でしたが、明治四(1871)年に南組・北組が合併して現在の町域となりました。
⑧ 角倉町 [すみくらちょう]
宝永の大火(1708)の後、焼失した要法寺跡地に角倉家の当主が邸宅を構えたことから名付けられました。
⑨ 指物町 [さしものちょう]
町名の起源は不明ですが、町名は江戸時代初期の地図にすでに見えています。江戸時代には、東側に大垣藩戸田氏の京屋敷がありました。
⑩ 大文字町 [だいもんじちょう]
町名の起源は不明です。江戸時代中期には「いせや丁」などとも呼ばれました。宝永の大火(1708)以前、西側には寺地が広がり、道路を挟んで東側には浄土宗大光寺(だいこうじ)や真宗忍性寺(にんしょうじ)がありました。
⑪ 末丸町 [すえまるちょう]
土手町通は、安土桃山時代の天正十九(1591)年に豊臣秀吉が築いた御土居(おどい)に由来します。宝永の大火(1708)の後、土手町通あたりを末広町(すえひろちょう)、中町通あたりを丸屋町(まるやちょう)とそれぞれ呼ぶようになり、明治四(1871)年に両者が合併して末丸町となりました。
⑫ 鉾田町 [ほこでんちょう]
町名の起源は不明です。江戸時代中期には「了みん町」とも呼ばれていました。
⑬ 清水町 [しみずちょう]
この町の中央にある法雲寺(ほううんじ)の本堂西側には、かつて清らかな水をたたえた池がありました。そのため、寺の山号も清水山、町名も清水町となりました。
⑭ 東生州町 [ひがしいけすちょう]
江戸時代初期の慶長十六(1611)年、角倉了以(すみのくらりょうい)(1554-1614)が高瀬川を開削した後、いけすを備えた川魚料理店が多く建ち並んだために名付けられました。「ワカサ丁」と呼ばれることもありました。二条通の北側には善導寺(ぜんどうじ)があります。
⑮ 西生州町 [にしいけすちょう]
町名の由来は東生州町と同じですが、東西の名称がいつからなのかは不明です。
⑯ 樋之口町 [ひのくちちょう]
鴨川から高瀬川が分岐する要口、すなわち樋の口があることから名付けられました。
⑰ 榎木町 [えのきちょう]
町名の起源は不明です。江戸時代初期には青貝町(あおがいちょう)と呼ばれ、貝細工や漆塗りの職人が住んでいました。また、昭和四十三(1968)年までは妙満寺がありました。
⑱ 一之船入町 [いちのふないりちょう]
慶長十六(1611)年、高瀬川の起点に船だまりが設けられたことから名付けられました。江戸時代には長州藩邸、および高瀬舟の運行を管理する角倉屋敷がありました。
⑲ 下丸屋町 [しもまるやちょう]
町名の起源は不明です。江戸時代まで、下丸屋町とその周辺の鍋屋町(なべやちょう)・塗師屋町(ぬしやちょう)・役半町(やくはんちょう)には、さまざまな職人が暮らしていましたが、明治の初めに下丸屋町に合併しました。
⑳ 恵比須町 [えびすちょう]
町名の起源は不明です。かつて北から順に、風呂屋町(ふろやちょう)・蛭子町(えびすちょう)・大黒町(だいこくちょう)の三つの町が並んでいましたが、明治四(1871)年二月にこれを統合して恵比須町となりました。
㉑ 上樵木町 [かみこりきちょう]
慶長十六(1611)年に高瀬川が開通すると、大阪から伏見を経由して運び込まれる薪や炭を商う店舗が、この一帯に多く立ち並んだことから名付けられました。
㉒ 上大阪町 [かみおおさかちょう]
慶長十六(1611)年の高瀬川の開通後、大阪出身の商人たちが大勢やってきて、ここに店舗を構えたことから名付けられました。