第7号
発行日 令和4年6月9日
編集/発行 銅駝史料館委員会
銅駝学区における日中戦争下の生活と戦没者
津田 壮章(京都大学大学院 人間・環境学研究科 博士後期課程、日本学術振興会特別研究員DC)
1937(昭和12)年7月7日に起きた盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まると、銅駝学区にも戦争の空気が漂いはじめます。銅駝史料館に所蔵されている『銅駝学報』第26号(1938年)には、当時の児童が書いた銅駝学区の様子が記されています。
「天に代りて不義を討つ忠勇無双の我が兵は歡呼の聲に送られて」と勇ましく送られる、出征兵士を送るトラツクが河原町通を走る、或は旗を押し立てて樂隊に合せて行進する、その度に僕等は家からとびだして、聲のあるかぎり萬歳をさけぶ(69頁)。
内地では小さい子供が鐵かぶとをかぶつたり、兵隊さんの服を着て遊んで居ます。又愛國行進曲が至る所で聞かれます。勤儉貯金がやかましく、私達も水曜日は國旗辨當おやつのせつやく等に心掛けてゐます(85頁)。
こうした熱気の中で次々と戦地へ送られていった兵士達ですが、厚生省援護局(1978)の統計によると、日中戦争及びアジア・太平洋戦争において日本人軍人・軍属・準軍属が約230万人、民間人を含めると日本人のみで約310万人が死亡したとされています。第二次世界大戦全体では、軍人・軍属のみで2,000万人以上が死亡したとされる戦争でした。
銅駝学区と戦争の関係を記す資料として、史料館の中から戦没者に関連する資料が複数見つかりました。その中でも、帝國在郷軍人会銅駝分会『戦病死者遺族名簿』、銅駝遺族会『過去帳』、京都府遺族会「戦没者遺族台帳(昭和48年)」を綴じた『銅駝学区戦没者名簿』には、戦没者の詳細な情報が記録されています。主な情報は、氏名、遺族、死亡年月日、死亡場所、所属部隊、階級、従軍歴等です(【資料 1】参照)。
【資料1】帝国在郷軍人会銅駝分会「記載例」『戦病死者遺族名簿』
『過去帳』は、銅駝遺族会が保管していたものですが、1998(平成10)年に本館へ移管されています。その際に提出した書簡「御願い」には、当時の遺族会会長と世話人の連名で、「銅駝学区の貴重な歴史資料として、銅駝資(ママ)料館で永久に保存していただきたくお渡しいたします」と記されています。
こうした戦没者関連資料は、厚生労働省や国立公文書館等に類似の情報を記した文書が保管されている可能性があります。しかし、開示に至るには幾重の手続きを踏む必要があるとともに、個人情報が記載されているため遺族でなければ黒く塗られて開示されない箇所が多くなることが予想できます。本館は、学区出身戦没者のまとまった資料を所蔵しているため、戦時において住民がどのように戦争に関与していたのかを知り得る特殊な恵まれた環境にあります。
〇 銅駝学区における日中戦争下の生活
銅駝史料館には、銅駝警防團救護班の救護鞄【資料 2】が保管されています。警防團とは、1939年に公布された警防團令に基づき、前身となる消防組や防護団が統合改組された組織で、防空や消防を任務としています。しかし、中心となる任務は防空でした。また、「警察補助組織に止まらない、『国民動員』組織としての役割も期待」(土田 2010)されていました。
日中戦争が始まった37年には防空法が制定されます。その中心となる内容は、灯火管制や訓練参加の国民への義務化でした。41年に改正された防空法では、国民に都市からの退去禁止や空襲時の応急消火義務等が課されます。この時代の防空は、国家が国民を守るものではなく、国民が領土を守るものと規定されていました。京都は他都市と比べて結果として空襲が少なかったものの、この救護鞄は戦時下において空襲が起こることを想定して作られた貴重なモノ資料です。
【資料2】銅駝警防團救護班の救護鞄
『銅駝学報』には戦時下の学校生活の様子も記されています。下記の資料は、37年11月25日に岡崎公園で開催された日独伊防共協定 (1) 祝賀会の様子です。
六年生一同は、銅駝校を代表して岡崎公園へ向つた。岡崎公園は各學校の代表者が集る所で、隣の富有校も来てゐた。待つてゐると、どこからか、花火を、天空高くとばし、中から、三國の旗を出す。まもなく全小學生は長い列を作つてあるき出した。公園に近い所だつた。そこには、三國の人々が旗をふつてゐる。門近くなると、旗を高く上げて萬歳々々と叫ぶ(26号、55頁)。
戦前・戦中のこうした行事は珍しいものではありません。陸軍記念日や海軍記念日の他、紀元節等の祝祭日に式典がおこなわれています。『銅駝学報』に「南京陥落の夜の提灯行列のにぎやかな光景も忘れることが出来ない」(26号、85頁)といった記述があるように、戦勝が報じられるごとに士気を高揚する行事がおこなわれ、小学生も参加していました。父親と入営する兵士を見送りに行った2年生は、「學校ではたく山の入營者が集つて居ます。高い所から軍服を着た人がお話をして居ます。〔中略〕天皇へい下ばんざいを、三べんとなへて、國旗を先頭に立てゝ、れつを作つてばんざい\/(くの字点)と勇ましく出發せられました」(25号、29頁)と書いています。こうした記述からも、当時の子どもたちと戦争の距離は今では想像できないほど近く、37年の時点で既に学校生活に戦争が影響していたことがわかります。
〇 戦時下における銅駝学区出身戦没者
本館所蔵の『戦病死者遺族名簿』、『過去帳』、『銅駝学区戦没者名簿』に記された日清戦争からアジア・太平洋戦争に至る銅駝学区出身戦没者の情報を判読可能な箇所について集計しました。上記の資料には、軍人、軍属の戦没者合計165名について記載されていました。死亡時の最年少が18才、最年長が42才です。年代別では、10代が2名、20代が73名、30代が45名、40代が3名、不明42名でした。
戦争別では、1894年から95年に至る日清戦争関連で死亡した人が2名、1904年から05年に至る日露戦争関連で死亡した人が9名、日中戦争及びアジア・太平洋戦争関連で死亡した人が134名、死亡年月日の不明者が19名、その他が1名でした。死亡者が多い年については、43年10名、45年41名、44年54名の順に多くなっており、アジア・太平洋戦争後半に死者数が急増していることがわかります。また、天皇がラジオ放送で敗戦を明らかにした45年8月15日や、日本政府が降伏文書に調印した同年9月2日以降に死亡した人も13名おり、戦争は日本降伏後も続いていることを示しています。シベリアに抑留された後に死亡した人も2名確認できます。
銅駝学区出身の出征者が戦没した地域を表にまとめました。これを東アジア地図に反映させたものが【資料 3】です。大まかではありますが、地図上に記した数字が死者数と戦死した場所を示しています。
【資料3】
戦死した場所やその正確な日付が記載されていない人がいる一方で、戦死時の状況が詳しく書かれている人もいます。例えば、中国河南省で戦死したある士官は、「敵弾数發腹部ニ受ケ再ビ立ツ能ハズ遙カ東天ヲ拝シツゝ天皇陛下萬歳ヲ三度ビ奉唱護國ノ鬼ト化セラレル」と記載されています。こうした戦死時の記述は、国民の戦意高揚のために美化されている可能性があり、正確なものかは定かでありません。むしろ、天皇の御子として万歳三唱でもって戦地へ送られ、「天皇陛下万歳」と叫んで戦死後に「護国の鬼」になるというような、天皇に忠誠を尽くして戦死したことを示す表現は、他の戦没者にも多く見られます。そして、このような戦没者に対し、学区が公葬を取り行い、弔うことを通して「英霊」として遺族に名誉を与え、戦死を納得させ、戦死を正当化する構造が形成されていたことがわかります。
〇 資料寄贈のお願い
戦時下の学校生活や銅駝学区の状況がわかる資料を探しています。写真や日記、戦時中に使用された物等、関連資料を御自宅に残されている方や何かお気づきの方は、銅駝史料館まで情報をお寄せください。
【参考文献】
塚本儀助編『銅駝学報』第25号、(銅駝教育賛助會)1937年。
塚本儀助編『銅駝学報』第26号、(銅駝教育賛助會)1938年。
厚生省援護局編『引揚げと援護三十年の歩み』(ぎょうせい)1978年、311、399頁。
「勅令第二十号 警防團令」『官報』1939年1月24日。
水島朝穂・大前治『検証防空法――空襲下で禁じられた避難』(法律文化社)2014年 16-22、38-47頁。
土田宏成『近代日本の「国民防空」体制』(神田外語大学出版局)2010年、280頁。
※本稿では省略している部分も多いですが、第二次世界大戦前後の大まかな流れについては、以下の図録が簡潔にまとめており、安価で手に取りやすいものになります。
帝国書院編集部編『図説 日本史通覧』(帝国書院)2014年、274-303頁。
木村靖二ほか監修『第4版 世界史図録』(山川出版社)2021年、232-243頁。
【注】(1) 国際共産主義運動を指導するコミンテルンへの共同防衛を定めた協定。
無断転載・複写を禁じます
『銅駝史料館だより』第7号のPDF版(4ページ)
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