第6号 

発行日  令和 4 年 3 月 9 日

編集/発行  銅駝史料館委員会

銅駝史料館所蔵資料からみる銅駝中学校の歩み

須永 哲思京都外国語大学 非常勤講師

はじめに

1947(昭和22)年4月に設立された銅駝中学校は、1979(昭和54)年3月に廃校となり、1980年4月から新たに銅駝美術工芸高等学校が設立されました。本稿では、銅駝中学校の30年余りに渡る足跡について、銅駝史料館所蔵資料から辿ります。

銅駝中学校の設立と銅駝小学校の廃校

1947年4月、銅駝中学校は銅駝小学校に併置される形で設立され ました。その後、1948年3 月に銅駝小学校は廃校、同年4月に銅駝中学校が独立することになりました。この時、明治期以来の番組小学校の流れを汲む銅駝小学校の廃校に対する反対意見は根強く、銅駝小学校の存続(中学校の新設)を求める「請願書」が京都市会に提出され ました(「請願書」1948年2月5日、簿冊『教育委員会記録』所収)。また、「銅駝小学校に在学する児童たちは、立誠や富有に分散通学となり、明治の初年から、区内の学校として、学校中心で結ばれて来た平和な優秀な区内がにわかに分散されて、他校にやられ、自校は中学校に転用されるということは、今までの心の故里として盛り立て育成して来た学校だけに、人情として実に忍び難い」、「地元の銅駝学区としては、靑天のへきれき」だった、とも回想されています(『銅駝中学校沿革史』1957年、4頁)

銅駝中学校の独立は、単に “小学校が中学校になった” ということではなく、銅駝学区の子どもたちが学区外への分散通学を強いられることは代々地域で守ってきた自分たちの学校” のあり方を損なうものと受け止められていました 。

左:【資料1】『瀬の音』第2号表紙(1951年)

右:【資料2】「教科目時間数」(左)・「卒業生進路状況」(右)『本校の経営』(1952年)

 当初は反発も大きかった新制中学校ですが、次第に定着していきます。1950年3月に文集『瀬の音(せのと)』が創刊、以後毎年刊行が続けられました【資料1】

 また、この頃の銅駝中学校の様子がうかがえる史料館所蔵資料の一つに、『本校の経営』(京都市立銅駝中学校編、1952年)があります【資料2】。まず、当時の銅駝中学校の時間割をみると、戦後の新教科である「社会科」や「ホームルーム」(特別教育活動)の時間が組み込まれていることが分かります。次に、1950年度の卒業生275人(男156人/女119人)の進路状況をみると、高校など上級学校への「進学」が158人(男87人/女71人)、「就職」が94人(内、夜間高校進学者15人)、「家事従事」が23人となっています。1950年の高校進学率の全国平均42.5%(男48.0%/女36.7%と比較すると、銅駝中学校の進学率57.4%(男55.7%/女59.6%)は約15ポイントほど(特に女子は約23ポイント)高かったことが分かります。それでも、残りの 約半数は、就職や家業・家事手伝いなど中卒で働いていたことになります。高校進学率の全国平均が90%台に到達するのは1970年代半ばのことで、今日の中学校・高校進学率をめぐる状況とは大きく異なっていました。そのほか、保護者の職業内訳をみると、「公務自由業」(教員など)73人、「事務的職業」(会社員など)73人、「工業」(土木建築、紡織染色など)167人、「商業」(接客業など)249人、「交通業」8人、その他(不定の家事手伝など)24人、無職31人となっています。いわゆるサラリーマンは保護者の10%ほどで、当時の銅駝学区は工業・商業が中心だったこともうかがえます。

【資料3】「本校在籍生徒数」『銅駝沿革史』(1969年)

 生徒数(学級数)は設立当初は237人(5学級)でしたが、1955年に938人(19学級)でピークを迎え、その後は減少傾向に転じ1968年には269人(8学級)となっていました【資料3】。ただ、生徒数の減少は、学校側では必ずしも否定的に捉えられてはいませんでした。『銅駝沿革史』(京都市立銅駝中学校編集、1969年)では、1学級50人前後の時代もあったが、「生徒数は30人台が理想的であって、教育効果も多い」ためむしろ「〔昭和〕40年以降の本校は恵まれた状態」だ(31頁)、今後は「京都市街地最小の中学校」として「小規模校としての新しい型の歴史の第一歩」を踏み出そう、という決意が新たにされていました(1頁)。

銅駝中学校統廃合反対運動の展開

 しかし、銅駝小学校廃校反対運動から30年後の1978年、今度は銅駝中学校の廃校が持ち上がり、再び反対運動が展開されました。「統廃合問題」は、日吉ヶ丘高校の独立移転(後の銅駝美術工芸高等学校の設立)という側面と、京都市内の小規模校の統廃合(銅駝中学校の柳池中学校への 統合=銅駝中学校の廃校)という側面が絡まりあっていました。

 1978年1月20日に京都市教育委員会から銅駝中学校廃校に関する最初の打診があったとされ(「銅駝中学問題経過報告」『銅駝中学を守る会ニュース』第13号、1979年4月)、同年6月に銅駝中学育友会を中心に「銅駝中学を守る会」が結成、以後、反対運動が本格的に展開されていきました。1978年9月12日に行われた「銅駝中学廃校反対デモ」の様子を収めた映像資料(DVD)が、銅駝史料館に残されています。市教委・守る会の間で「話し合い」が進められたものの、守る会側の主張 ─「小規模校の統合による教育効果の向上」が理由というが、銅駝中学校を柳池中学校に統合するとむしろ「教育条件の低下」を招く、銅駝中学校の廃校は日吉ヶ丘高校の独立移転先という跡地利用のためではないか【資料4】──と、市教委側の主張 ──「統合の是非について、改めて話し合うことは全く考えていない」、「統合時における生徒の教育が円滑に進められるよう、就学並びに学習上の問題についての協議」をしたい【資料5】── とは、最後まで平行線を辿ることとなりました。

左:【資料「申し入れ書」(発:銅駝中学校育友会会長・中山孝一、宛:京都市教育委員会教育委員長・池田正太郎、1978年9月20日)

右:【資料「統合問題に関する協議について」(発:京都市教育委員会教育長・城守昌二、宛:銅駝中学校育友会長・中山孝一、1978年10月25日)

銅駝中学校の廃校、銅駝会館・ 銅駝美術工芸高等学校の設立

 1978年11月7日から、遂に「同盟休校」に突入しました。中学生たちは、登校しない期間に「自習」を行い生徒会を開催して議論を深めていたようです【資料6】【資料7】。保護者から生徒に宛てたメッセージ文では、“学校に登校しないのはいけないことではないか” という生徒の「悩み」を受け止めた上で、同盟休校という強硬手段を執らねばならないのは「悲しいこと」だが「最後の方法」として廃校反対を「主張」する「権利」の行使も必要だ、同盟休校の期間にも「しっかり自分達の手で勉強を」進めて欲しい、という願いが記されています【資料8】。11月12日に同盟休校中止が宣言、17日の臨時京都市会にて「京都市立中学校条令改正案」が可決(銅駝中学校廃校が決定)、翌1979年3月に銅駝中学校最後の卒業式が行われました。その後、地域側の「母校関係資料を残して欲しい」「跡地にできる学校の名称に「銅駝」の名を残して欲しい」という強い要望(「要望書」発:銅駝中学校同窓会役員会、宛:京都市教育委員会、1979年8月9日)を受けて、1979年12月に銅駝会館・銅駝史料館が開設、1980年4月に銅駝美術工芸高等学校が開校されました。

左:【資料6】『京都新聞』(1978年11月8日)

右:【資料7】『朝日新聞』(1978年11月9日)

【資料8】〔無題:同盟休校中の生徒に向けた保護者からのメッセージ文、1978年11月7日か〕

 もとより、本稿はあくまで史料館所蔵資料のみに基づいて可能な範囲での解釈・復元ということになります。当時のことをご記憶の方・実際に銅駝中学校で過ごされた方への聞き取りについては、今後の課題として、引き続き取り組んでいきたいと考えています。

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『銅駝史料館だより』第6号のPDF版(4ページ)

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