発行日   令和 3 年 11 月 吉日

編集/発行 銅駝史料館委員会

「銅駝学校物語」の見どころ

田中 聡(立命館大学 教授)

銅駝史料館所蔵資料調査グループは、昨年春から史料館にある資料の目録作成作業を進めております。その過程で、銅駝尋常小学校の設立から現在の校舎の竣工、戦後の新制中学校が廃校となり、銅駝美術工芸高等学校が当地に移転するまでの推移について語る資料が見つかって来ました。そこで、新たに判明した事実について、来たる12月12日に開かれる「第2回銅駝史料館フォーラム」にて「銅駝学校物語」と題し報告させて頂きます。それに先立ち、この第5号では、いち早くその見どころについてお伝えしたいと思います。 

明治元(1868)年、現在の銅駝地域11町で他地域に先んじて江戸時代以来の「会所(かいしょ)」を合併し、「上京第三十一番組」が出来ました。初代京都府知事・長谷信篤ながたにのぶあつ)が小学校設立を諭達したことを受け、地域の人々は区内の年寄・山本徳兵衛、添年寄・牧野凊左衛門らを中心に小学校建設に取りかかり、明治2(1869)年9月21日、二条通寺町東入の榎木(えのき)町(現在の京都市役所北側)に「上京第三十一番組小学校」が開校しました。これが今に続く「銅駝学校」の歴史の始まりです。

以後、周辺の土地の借り入れや買収によって校地を拡張し、10年後には教室棟3棟と2階建ての講堂をもつ校舎が完成しました。その間に第2代知事・槇村正直の発案により、平安京以来の「銅駝坊」の古称を採用して「銅駝小学校」と改称します(明治8(1875)年)。同20(1887)年の学制改革、25(1892)年の学区再編を経て、「上京区第二十六学区銅駝尋常高等小学校」となりました(1901年)。

【鉾田町の銅駝尋常小学校正門 1903年~32年 

 銅駝学区の拡張が進み、児童数の増加に伴って校地が狭くなってきたため、京都府舎密局(せいみきょく)の跡地(土手町通夷川上ル鉾田(ほこでん)町)に1401坪の土地を購入して校舎を移転し、二階建ての校舎2棟、雨天体操場、図書館や幼稚園などが併設されました(1903年)。学区内には裕福な住民が多く、大正期に入ると教育の質を高めるために校地をさらに拡張し、校舎も根本的に改築すべきだとの意見が出されます。

 同時期、京都市内では、小学校間の教育格差が問題視され、これまで各学区が独自に支出していた小学校費のうち教員の俸給のみが京都市から一律に支払われ、教員は学区会で任命するが、校長の人事権は市がもつという分担がなされました。また校舎の増改築費や教材購入費等は学区の負担となりました(大正7(1918)年)。背景には明治22(1889)年に施行された京都市制のもとで、各学区の行政と学事が分けられたことがあります。これにより、銅駝学区住民の手で小学校の施設をさらに充実させ、教育環境をより良くしようとの意識が高まりました。

【京都市銅駝尋常小学校編『改築竣工記念』(1934年)】

 昭和期に入り、1930年代には木造校舎から鉄筋コンクリート造校舎への改築が進められます。銅駝尋常小学校増改築準備会を組織し、改築費の多くは学区債や積立金、学区民の寄附金から捻出されました。昭和8(1933)年に北側部分が竣工しますが、翌年9月の室戸台風で他校の木造校舎が倒壊して多くの死傷者が出たことで、残る木造部分に危機感を増した住民の間から不安の声が挙がりました。すぐに第二期工事が検討され、同14(1939)年に完了し、現在のアールデコ調の鉄筋コンクリート校舎が出来ました。一連の工事の費用、寄附金・積立金・学区債を併せて総額約29万円は、現在の約7億円にあたる巨額で、「銅駝学校」に関わる人々の熱意が感じられます。

またこうした活動を支えた後援機関である銅駝教育会(明治21(1888)年創設)は、会誌『銅駝学報』を刊行しており、当時の生徒の作文や習字、運動部の活動、教職員による時評、保護者の投書などを通して、活発な活動ぶりを知ることが出来ます。

【『銅駝学報』創刊号(1913年)】

 このように銅駝学区の住民に支えられ、京都市内有数の小学校として知られるようになってきた「銅駝学校」ですが、満州事変以来、戦時体制が敷かれる時代になると、国・京都市による学区への規制が強まります。太平洋戦争開戦の直前、昭和16(1941)年3月に制定された国民学校令により、学校財産の市への移管を余儀なくされました。残念ながら銅駝校を学区から京都市に移管したことに直接触れた資料は今のところ見つかっていませんが、現在の銅駝会館に関する連合自治会と京都市の契約書のなかに、移管当時の年月日が記されており、地域住民がその通達を受けて協議したことが伺えます。戦時中、京都市内の各小学校では所蔵資料の多くが処分される憂き目に遭いましたが、その後も「小学校は地域のもの」という住民の意識は残りました。『銅駝史料館だより第1号』でもご紹介したように、住民6名の手によって「上京第三十一番組小学校」以来の教材の一部や発行物、学籍簿、学校日誌など、「銅駝学校」の歩みを知る上で欠かせない資料が秘匿され、これが銅駝史料館の所蔵資料の核となっています。

 昭和20(1945)年8月の敗戦を迎え、占領軍の主導で教育改革が行なわれるなかで、軍国主義的・非民主主義的な教育の取りやめ、新制中学校・高等学校の設立などが進みます。京都市では従来の学校・通学区が再編され、銅駝・春日・立誠学区などからなる新制銅駝中学校が設置されました(1947年度だけ銅駝小学校も併設)。

 昭和22(1947)年6月、銅駝校教員と保護者から各6名を「教育委員」に選出し、以後これが民主的な教育運営の主体となります。そこから中京東支部の教育委員4名を選出し、さらに京都市の教育委員を選出したと見られます。中京東支部教育委員会は銅駝校を小学校として存続させる案を提出しましたが、京都市教育委員会は中学校に転換する計画を発表し、銅駝教育委員会はこれに強く反発しました。銅駝学区側の「請願書」では、「教育を熱愛する銅駝区民の真情は昭和八年、区としては実に分に過ぎた大建築をしましたことによって御推察願えることゝ存じます。今、委員会案によりますと、立誠、富有、春日の三学区に分散しなければならず、八拾余年の魂の故郷を失うことになります」と述べており、当時の住民の熱い思いが伝わってきます。

 銅駝学区では代わりの校地案や春日校の転用案を示し、中京東支部教育委員会も「請願書」を提出しました。「銅駝学校」は制度上、京都市の所有物だったわけですが、住民の間には「我々の学校が市に奪われていく」という危機感が強かったことを示す資料といえます。

【『教育委員会記録』(1947年)】

 やがて新制銅駝中学校に通う児童が増え、「銅駝学校」の歴史を引き継ぐ中学校への愛着が強まっていきますが、昭和53(1978)年2月、京都市が銅駝中学校を統廃合する計画を打ち出し、住民から激しい批判が巻き起こり、大がかりな反対運動が展開されることとなります。当時日吉ヶ丘にあった京都市立美術工芸高等学校を銅駝中学校の跡地に移転する計画でしたが、市の強引な進め方への反発や、「銅駝への併合では駄目なのか」との声があがったほか、中学校の統廃合は少子化から見てやむを得ないが、銅駝学区の教育条件が悪化するのではないかとの不満もあり、住民の間にもさまざまな意見が出たようです。 

 銅駝史料館には、統廃合問題当時の中学生が作成した文部大臣宛の意見書(上の図版)の他、保護者会・「銅駝中学を守る会」の同盟休校に関するスタンスがうかがえる資料、教育委員会側の資料も集められており、統廃合問題の経過(議論・デモ、同盟休校実施とその後)について、当時の具体的な議論の内容や緊迫度を知ることが出来ます。

 「銅駝中学校統廃合問題」は、最終的には昭和54(1979)年の市立美術工芸高等学校の移転、銅駝中学校廃校という結果に至りましたが、高校名に「銅駝」の名を冠することが決まり、「銅駝学校」の歴史は守られました。またこの問題以後、京都市は市立学校の統廃合について、地元側の生徒数減少で運動会が出来なくなる等の要望が住民から出てくることを待つ姿勢を取り、住民の意向に対する慎重な配慮を求められることとなりました。 

 こうして150年余におよぶ「銅駝学校」の歩みをたどってみると、学区住民のなかの「学校は地域のもの」「良い教育を子どもに受けさせたい」という強い思いと、京都市側の「公立学校は行政によって管理されるもの」であり、「公教育の機会均等の実現」を学区に対し求める行政側の方針との間の綱引きが行われてきたことが明瞭に分かります。

 令和5(2023)年春、銅駝美術工芸高等学校の崇仁地区への移転を前に、「銅駝学校」の歴史をどう学区の中に残していくかが改めて問われています。なお、ここでご紹介した資料の詳細は、12月12日に開かれる「第2回銅駝史料館フォーラム」で説明しますので、ご関心がある方はぜひご参集下さい。

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『銅駝史料館だより』第5号のPDF版(4ページ)

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