第4号 

発行日   令和3年9月9日

編集/発行 銅駝史料館委員会

アジア・太平洋戦争期の銅駝校

富山 仁貴兵庫県立大学 非常勤講師

はじめに

アジア・太平洋戦争のさなかの1941年(昭和16)4月1日、銅駝校は「銅駝尋常小学校」から「銅駝国民学校」に改称しました。単に名前が変わっただけではありません。戦争に国民を全面協力させるために、学校制度や教育内容を変更し、学区の廃止も行なわれるなど、銅駝校のあり方は大きく変わることとなりました。

今回は、銅駝史料館に残された様々な資料を手がかりに、アジア・太平洋戦争期の銅駝校の姿に迫ってみたいと思います。 


日中戦争の始まりと戦時体制

 1930年代の日本では、中国大陸で戦火が広がる一方で、国内では都市部を中心に比較的豊かな社会が出現していました。現在の銅駝校の本館が建てられたのもこの時代です(詳しくは、『銅駝史料館だより』第3号をご覧ください)。鉄筋コンクリート造のアール・デコ様式という最新の技術と意匠を取り入れた建物は、当時の銅駝学区の経済的な豊かさと文化的な成熟を物語っています。

 しかし、1937年に日中戦争が始まって中国大陸での戦争が全面化すると、社会は一気に戦時体制へと移りました。第二期工事が完了した翌年に発行された小冊子『京都市銅駝尋常小学校教育概要』(1939年)には、銅駝校の教育方針について、「一、本校は教育に関する勅語、幷に詔書の聖旨を奉戴し、小学校令の示す所に遵ひ、時世の進運に適応せる教育を施し、以て、心身健全にして、善良有為、忠誠能動的なる大日本帝国第二の国民たらしむべく教養せん事を期す」と記されています。

【資料1】『京都市銅駝尋常小学校教育概要』表紙 

 ここに示された「時世の進運に適応せる教育」とは何を意味するのでしょうか。直後の文章を踏まえると、「国体」や「日本精神」を重んじた、戦時体制にふさわしい教育と言えそうです。また、京都人の気質(古い慣習が多く、国家への忠誠心が薄く、都会ゆえ体力に乏しいなど)を打破して「剛健進取の気風」や「勤勉忍耐の習慣」を学ばせるとうたっている点も注目すべきでしょう。経済的な豊かさや文化的な成熟よりも、国家主義的な教育方針を優先する時代が来ていたのです。

銅駝国民学校の誕生と学区の廃止

 1941年、戦時体制にふさわしい学校をつくるために、政府は「国民学校令」を制定し、同年4月1日をもって全国一斉に国民学校が発足しました。この法令は、第一条で「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」とあるように、「皇国ノ道」という理念と「錬成」という方法によって教育を行うという国家主義的な内容を持っていました(文部省編『学制百年史』など)。

 また、「国民学校令」は、従来の「小学校令」と違って学区による学校の設置を認めていませんでした。そのため、京都市内のすべての学区は1941年3月31日に廃止され、銅駝校は銅駝学区から京都市に移管されました。これ以降、「学区」という言葉は、地域の名称として現在に受け継がれることとなります(京都市編『京都の歴史』9巻)。

 成立直後の銅駝国民学校については、人事や財政に関する資料が残されており、当時の学校運営や先生たちの様子が窺えます。まず、1941年度の教職員数は、田中淳一郎校長をはじめとした教員14名(男9・女5)、職員1名()、看護婦1名()、使丁4名()、給仕1名()の計21名でした(「昭和十六年下半期慰労金ニ関スル件」『内申書綴』)。教員数14名は、ちょうど校長1名+教頭1名+各学年2名に相当します。42~44年度には2年制の高等科も併設され、もっとも多い時で初等科・高等科合わせて18名の教員が勤務していました。また、府の教職員名簿『京都府学事関係職員録』(昭和16年度版)によると、銅駝商業青年学校も同じ敷地に併設されており、5名の教員(うち田中淳一郎校長を含む3名が国民学校兼任、2名が青年学校専任)と6名の指導員(うち3名が軍事教練を担当する軍人)が所属していたことを確認できます 

戦争末期の学童疎開と防空体制

 戦局が悪化するなか、1943年後半には政府は連合軍の空襲を受けるおそれのある都市部の住民を地方へと避難させる「疎開」を計画しました。小学生を対象とした学童疎開については1944年6月に計画が立てられ、45年3月には京都市も追加指定されます(文部省編『学制百年史』、逸見勝亮『学童集団疎開史』など)。疎開先はおもに京都府の農村部や滋賀県でした。

 銅駝校の学童疎開については、簿冊『昭和二十年度 進達書綴』から知ることができます。この簿冊は、銅駝校が京都府や京都市などに提出した書類の控えや写しを綴じたもので、教員の出征、出張旅費や給与の支払いなど様々な書類のなかに、学童疎開に関する書類が含まれています。それによると、銅駝校において疎開した学童数は、①集団疎開=初等科3~6年生の74名(「集団疎開児童数 九月十九日現在」)、②児童単独または一家での縁故疎開(一時的な転校)=初等科1~6年生の96名でした(「学童縁故疎開報告書」「第二表 縁故疎開児童数」)。前年度の児童総数が470名なので、全児童の約16%が集団疎開、約20%が縁故疎開を行い、約42%が銅駝校に残りました。また、約100名(21%)が転校してしまい、少なくない児童が敗戦後にも戻らなかったと思われます(児童数の変遷については、『昭和十六年四月以降 学事統計綴』を参照)。集団疎開の疎開先は何鹿(いかるが)郡(現在の綾部市)物部(ものべ)村の物部地区と白道路(はそうじ)地区で、物部国民学校が受入校となり、4名の教員が付き添いました(「集団疎開ニ関スル報告」「疎開教育篤行者報告」)。疎開先の具体的な様子を物語る資料は発見できていませんが、子どもたちはひもじい思いをしたと言われています。

【資料2】「銅駝国民学校平面図」(『昭和二十年度進達書綴』所収)

    講堂と6つの教室に「島津」と書き込まれている

 児童数が半分以下に減った銅駝校では、残った教職員により防空体制が整えられ、空いた教室は島津製作所の倉庫に転用されました(銅駝国民学校『昭和十九年度以降 学校沿革史』)。1945年7月に府内政部長に提出した報告書の控えによると、屋外に防空壕3、防火用水溜5、四斗樽の水槽21、消火栓9、バケツ50などを用意したと記されています。付属のメモによれば、空襲警報が発令された際は、教職員、島津製作所の所員約40名、地域の警防団が警戒に当たると決められていました(「銅駝国民学校平面図」『昭和二十年度 進達書綴』所収)。

 敗戦直前のモノ不足と人手不足は深刻でした。1944年4月から始まった給食は、45年5月に中止になりました。食糧の確保が困難になっていたことが原因と思われます(前掲『学校沿革史』)。また、45年5月時点の教員数は13名(男8・女5)ですが、集団疎開の付き添い4名、軍隊に入営中2名が含まれ、銅駝校に事実上勤務していたのは校長以下7名に過ぎませんでした。女性教員5名のうち2名は、正規の資格を持たない「助教」として臨時に担任を受け持っていました(『学校職員区分並俸給台帳』、『昭和十六年四月以降 学事統計綴』)。

敗戦の日、1945年8月15日

 最後に、敗戦の日の様子を当時の『学校日誌』から確かめておきましょう。この日は、朝6時30分から9時35分のあいだに3度も警戒警報が発令されました。最初の電話により、「明十六日午後一時ヨリ府一女ニ於テ学徒隊隊長及副隊長会アリ。必ズ出席スベシ」と伝えられています。「府一女」とは京都府立京都第一高等女学校(現在の府立鴨沂高校)、「学徒隊」とは校長を隊長、各学級の担任教員を分隊長とする戦争末期の学校組織を指しています。ところが、次の電話で「先程ノ電話網取消ス。午後四時ヨリ支部校長会ガ竹間校ニ於イテ行ハル。各校長必ズ出席スベシ」と日程の変更が連絡されました。「支部校長会」とは、中京東支部に属する11国民学校の校長会のことだと思われます。また、同じ日に学区内の町会長会議も銅駝校の会議室で行われたことを確認できます。敗戦を告げた「玉音放送」とは別に、官僚→校長→町会長の順で敗戦に関する重要な情報が国民に伝えられたと思われます。こうして、銅駝学区は敗戦を迎えました。

【資料3】『昭和二十年度(自四月至八月)学校日誌』

8月15日条の一部を加工

 なお、占領改革にともなって1947年に銅駝国民学校は廃止されて、京都市立の銅駝小学校と銅駝中学校が設立されました。この経緯については、別の機会に検討しようと思います。

【参考文献】

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『銅駝史料館だより』第4号のPDF版(4ページ)

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