第3号 

発行日   令和3年7月9日

編集/発行 銅駝史料館委員会

銅駝尋常小学校鉄筋コンクリート造校舎建設の経緯と学区民からの寄附

津田 壮章(京都大学大学院人間・環境学研究科 博士後期課程、日本学術振興会特別研究員DC)

銅駝史料館所蔵資料調査において、銅駝尋常小学校鉄筋コンクリート造(以下、RC造)校舎(現・銅駝美術工芸高等学校本館)建設工事の寄附者名簿及び関連資料を発見しました。これらの資料の学術的価値を説明するとともに、これらから明らかになった現校舎の建設の経緯と学区民からの寄附の動向を解説します。 


〇 銅駝史料館所蔵資料の分類と価値

 歴史資料は、大きく一次資料と二次資料に分けられます。一次資料とは、対象とする事象の当事者や関係者が同時代に書き残した最も原初となる情報源であり、議事録・日誌・書簡・ビラ・写真等が挙げられます。二次資料は、一次資料を編集・加工したもので、歴史の教科書や年史、ドキュメンタリー映像等が該当します。

 銅駝史料館には、学区の歴史を記録した一次資料が数多く所蔵されています。地域の一次資料は、所蔵施設が設けられなかったり、時間の経過とともに当時を知る人が減ることにより、後世の人々に価値が認識されず、散逸したり廃棄される場合が多いように思います。こうした資料が他所に残されている可能性は低く、一旦散逸すれば取り戻すことは不可能です。このように消失することで、その時、その場所で起こった歴史を知る情報源がなくなり、地域の歴史を記せなくなってしまいます。

 これら資料の価値は金銭に代えられない希少なものです。そこに住む地域の人が知ることのできる資料を永続的に保存するとともに、それを保存する施設を維持し続けることは、後世の人々がその地域の歴史を知ることに繋がります。本館所蔵資料の中でも、銅駝尋常小学校RC造校舎建設工事の寄附者名簿及び関連資料は、昭和初期において現・本館の建設に関わった学区民の動向を詳細に記した貴重な資料群です。

【資料1】上 竣工した銅駝尋常小学校外観 北西側から南東を望む。 

      竣工時の玄関。

     共に 1933年。『銅駝尋常小学校沿革史』所収。

〇 現校舎建設の経緯

 銅駝美術工芸高等学校の本館は、銅駝尋常小学校であった1930年代に木造からRC造に改築されています。第一期工事では木造の一部がRC造となりますが、残りは木造のままでした。第一期工事の竣工写真から、現在も利用されている西側正面入口が、当時はRC造校舎の南西部の西側に位置していたことが確認できます【資料1】 

【資料2】「銅駝尋常小学校第二期工事 

 【資料2】は、第二期工事の工事案を示した間取図です。第一期工事で竣工済の部分が緑、第二期工事でRC造で増築される部分が黄に塗り分けられています。

 第一期工事は1933(昭和8)年に完了しますが、34年9月の室戸台風で他校の木造校舎が倒壊し、多くの死傷者が出ました。そのことによる保護者の危機感や不安、同じ学校であるにもかかわらず安全性が教室によって異なるという不公平感を理由に、すぐに第二期工事が検討のうえ着手されます。39年に完了した第二期工事では、現・銅駝自治会館の建物もRC造に建て替えられました。現在とは異なり、京都市の公立小学校は市ではなく学区が運営していたため、学校改築費の多くは学区債や積立金、学区民の寄附金に依存していました。このため、小学校校舎は学区の象徴ともいえる建物でした。

 1935年11月16日に19人の学区役員が連名で出した文書「第二期工事に就て」には、「大暴風に起因して、旧校舎に授業を受くる児童達の如何にも不安らしく父兄の方々の御感想も察せられますこと。且又飽くまで一切を平等に取扱ひたい国民教育の精神から申しましても、何だか新旧の施設には其の間に児童達の幸不幸が有るかの様に感ぜられたり致しまして」【資料3】と、第二期工事を早急に進める理由が記されています。

【資料3】「第二期工事に就て 1935年11月16日」

〇 学区民からの寄附

 この建設費に充てるため、学区民からの寄附が度々呼びかけられていました。銅駝史料館所蔵の『昭和八年十月竣工 銅駝尋常小学校建築費寄附者芳名録』には、1,000円以上の高額寄附者も記載されています。寄附者一覧には、100円や50円の寄附も含め、合計900人以上の氏名が記されています【資料4】。こうして集められた第一期工事の寄附金8万円が1932(昭和7)年に営繕を担当する京都市へ納められています。

【資料4】『昭和八年十月竣工 銅駝尋常小学校建築費寄附者芳名録』表紙

 第二期工事の建設費の当初予定額13万円のうち4万円を寄附金で充当することが予定されていました【資料5】。こうした金額は、当時の物価から考えると非常に高額なものでした。第二期工事が着手された1935(昭和10)年には、東京における白米10kgの小売価格が約2円50銭、37年には高等文官試験に合格した官吏(現・国家公務員総合職に該当)の初任給は約75円です。よって、現在の価値に換算すれば、当時の4万円は約1億円に相当する金額でした。

【資料5】「銅駝小学校増築第二期工事準備会に就て」

 こうした校舎建設費に占める寄附の額を示す資料から、当時の学区民が後進の教育にかけた並々ならぬ期待と支援が読み取れます。現・本館校舎は、銅駝学区の住民が学区の子ども達のために私財を投じた、学区の中心的公共施設といえるでしょう。

【参考文献】

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銅駝史料館だより』第3号のPDF版(4ページ)

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