第2号 

発行日   令和3年5月9日

編集/発行 銅駝史料館委員会

都市計画道路・河原町通成立事情

~國枝氏(橘柳町)所蔵史料「陳情書」の御紹介~ 

白木 正俊(京都大学文学研究科 非常勤講師) 

銅駝学区からほど近い京都御苑の外縁をぐるりと一周すると、不思議なことに気付きます。御苑西側の烏丸、北側の今出川、南側の丸太町の各通は、多くの人や車が往来し、幅員が広い幹線道路であるのに対し、東側の寺町通は必ずしも御苑に沿わず、市バスが通ることもなく、人や車の往来の少ない幅員が狭い道路です。御苑東側の幹線道路と言えば、寺町通から約100m東方に進んだ河原町通になります。では、どうして御苑の四方全てに幹線道路が設けられず、東側の幹線道路だけが、寺町通ではなく、そこからやや離れた河原町通に設けられたのでしょうか。その理由を解明するためには、約100年前に起こった出来事に遡らねばなりません。

1912(明治45)年作成の京都市の地図(図①)を見ると、京都電気鉄道の軌道が高瀬川左岸の木屋町通を北進し、二条通で西に折れ、寺町通で再び北進して敷設されている様子がうかがえます。これらの通は他の通に比べてかなり幅員が広いです。一方、河原町通はこれらの通よりもはるかに狭く、新椹木町・中町・土手町の各通と同様に、学区を南北に縦断する一小路に過ぎません。

ところが、1935(昭和10)年作成の地図(図②)を見ると、河原町通が木屋町・二条・寺町の各通よりも広く拡張され、市電の停留所も設けられ、現在と同様に立派な幹線道路に姿を変えていることがうかがえます。

 明治以降の銅駝学区では、まず、1895(明治28)年4~7月に京都電気鉄道の軌道を敷設するため、木屋町(二条以南)・二条(木屋町・寺町間)・寺町(二条・丸太町間)の各通が拡張されました。現在でも、これらの通の両側に歩道が設けられ、他の小路に比べてやや幅員が広いのは、このためです。次いで、1925(大正14)年5月29日~27(昭和2)年4月30日に、河原町通(丸太町-七条間)は、市電が通る都市計画道路として幅員12間(約22m)に拡張整備されました。拡張以前の銅駝学区では、南北に長い大文字・指物の各町のほぼ中央を小路の河原町通が縦貫していましたが、この整備拡張のため、二町の民家の多くは撤去または減築を余儀なくされました。そのため、大文字・指物の各町の人口は、1920年に187人・253人であったのが、25年には76人・131人に激減しています。また、26年7~9月に、木屋町・二条・寺町に敷設されていた元京都電気鉄道(18年に京都市が買収)が廃止され、河原町通(丸太町-四条間)に新たに市電が開通しました。 

【出典】図① 福富忠也「京都市全図」1912年から北東部の一部を抜粋

    図② 京都市土木局「京都都市計画地図 三千分之一 御所」1922年測図、

       1925年製版 1935年修正測図 1936年製版から南東部の一部を抜粋。

 このように、河原町通は、木屋町・二条・寺町の各通に替わって、銅駝学区の中心を南北に直線に縦断する幹線道路となり、学区民の足となっていた電車も、L字の経路をゆっくりと進む元京電から直進する市電に変わりました。昭和初期以降、河原町通の東西両側には会社・ホテル・写真店・医院など、石材・モルタル・コンクリートの外壁を特徴とする新たな町並みが形成されました。また、独自の意匠を施した街灯が新たに設置されました。ここでは、昭和初期に河原町通に新築され、河原町通の象徴となった建物を御紹介します。現在、これらの建物は取り壊されたり改築されたため、姿を変えています。 

図③ 京都ホテル(現・京都ホテルオークラ) 1956(昭和31)年

京都ホテルは株式会社に改組したのに合わせ、1928(昭和3)年に建て替えられました。地上7階、地下1階の高層建築で、最大180人が宿泊できました。

図④ 島津製作所本社社屋(現・フォーチュンガーデンコート)

  1927(昭和2)年

島津製作所本社社屋は、1927年に、木屋町通二条下ル西側から、都市計画道路が完成したばかりの河原町通押小路上ル西側に移転しました。鉄筋コンクリート造の地上4階、地下1階の本館と、北側に技師を養成する付属施設が設けられました。

図⑤ 松井一之写真場  1998(平成10)年

河原町通竹屋町南東角(指物町)

外壁に大谷石、北側に円形の薔薇窓、銅板葺でドイツ風の片折屋根に天窓を配した意匠は、昭和モダニズムを感じさせます。

図⑥ 神原歯科医院  1998(平成10)年

河原町通夷川上ル西側(指物町)

擬石仕上げのモルタル外壁と、高い天井は歯科医院として重厚な印象を受けます。

図⑦ 島津製作所本社社屋屋上から北北東を望む  1927(昭和2)年

図②③④からも分かるように、河原町通の中央には市電の軌道が設けられ、その両側に車道、さらにその両側に歩道が設けられました。歩道には電柱とともに、「H」字計で二灯を配した特徴ある街灯、街路樹(イチョウ)が等間隔で設置されたこともうかがえます。現在、日本銀行京都支店がある二条通河原町南東角地には、長い塀で囲われた大きなお屋敷がありました。

【出典】

図③『京都ホテル100年ものがたり』(株式会社京都ホテル)、1988年、「回顧写真館」56頁。

図④『島津製作所史』(株式会社島津製作所)、1967年、56頁。

図⑤  白木正俊撮影所蔵資料。

図⑥  白木正俊撮影所蔵資料。

図⑦『島津製作所百十年史』(株式会社島津製作所)、1985年。


 しかし、幹線道路、河原町通が誕生する背景には、学区民を大きく分断しかねない激しい運動がありました。1910(明治43)~13(大正2)年に、京都市が実施した道路拡築事業(1)により、①千本通→後陰通→大宮通、②烏丸通、③東山通の3線が、京都市を南北に縦断する幹線道路として拡張整備されました。この時点では、烏丸通と東山通との間に京都市の南北を縦断する幹線道路は存在していなかったのです。しかし、18年に京都市は都市計画法(2)の適用を受け、寺町通と東山通間の何れかの南北の小路を拡張し、新たに幹線道路(都市計画道路)を整備することになりました。自動車が普及しはじめていたにもかかわらず停滞傾向にあった京都市の南北の交通を活発にする必要があったからです。そこで候補とされたのが寺町・河原町・木屋町の各通でした。しかし、寺町通は早々に候補から除外されます。同通には劇場・映画館・土産物店・飲食店などから成る繁華な商店街が既に形成されていたためでした。京都市は寺町通沿道の住民や営業主を立ち退かせ、補償費を支払うには、余りにも過大な経費と時間が必要であると見なしていたのです。よって、残る河原町通と木屋町通の何れかを拡張することになりましたが、内務省が提案した都市計画道路の原案は、河原町通を拡張しようとするものでした。

しかし、1919年12月25日に開催された京都市の都市計画道路を決定する京都市区改正委員会(3)では、内務省提出の河原町線案は否決され、替わりに、高瀬川を暗渠にすることを前提に木屋町線を拡張する修正案が可決したのです。翌年に高瀬川の舟運が廃止されること、さらに、近代下水道(4)が未整備であった当時の京都市において、木屋町通周辺の民家から流れ出る生活廃水が高瀬川を汚染し、同川は伝染病の発生源であると見なされていたためです。高瀬川を暗渠にすることよって得られる新たな土地を都市計画道路の敷地に充当させ、道路(交通)問題と衛生(環境)問題を同時に解決しようとしたのです。

しかし、この決定に対し、1920(大正9)~22年に、木屋町通・河原町通沿いの各学区では、どちらの通を拡張して都市計画道路とすべきなのか、学区を二分して賛否両論が巻き起こりました。特に、立退に反対する木屋町通周辺の住民が先斗町の花街関係者を中心に原案の河原町通への変更を求める激しい反対運動が起こり、やがて、京都市会を巻き込む一大運動へと発展していきました。

さて、次に取りあげた「陳情書」(橘柳町:國枝氏の提供)は、1921年12月28日に、「京都高瀬川保存ニ関スル市会実行委員会」委員長の八木伊三郎を筆頭に、委員の吉村禎三・竹内嘉作・鎌田直治郎・伊藤豊之助の5名が連名で、木屋町線を拡張する修正案に反対し河原町線を都市計画道路に変更するよう陳情したものであり、20~21年に、市会を中心に展開された反対運動の経過が記されています。すなわち、20年7月8日の都市計画京都地方委員会〔以下「委員会」と略〕では、市会の反対意見書が木屋町線を不可とするに止まり、対案を明示しなかったため、原案の河原町線が復活決定しなかったことは市会に責任があること、そのため、同年9月17日の市会では、史蹟名勝天然紀念物保存法(5)に基づき高瀬川を史蹟に指定するよう希望する意見書を議決し、上記5名がその実行委員に任命され、市と史蹟名勝調査委員に同希望を陳情したこと、21年11月18日の市会では、河原町線の復活を望む意見書を可決したことなどが、述べられています。さらに、当時の新聞と照合すると、21年9月22日には、5名のうち八木・伊藤・竹内が京都府庁に若林賚蔵知事を訪問し、同月に内務省で開催する名勝旧蹟保存会(6)に間に合わせ、同会に高瀬川保存の調査と保存を申達するよう依頼していたことなどが判明します。ただし、この「陳情書」には宛名が記されていないので、一見、誰に差し出したものか不明です。本文中に「本市」との表現を多用していること、末尾に「開陳仕候也」と記していることから想像すれば、河原町通への変更を支持する世論を喚起するため、広く京都市民に向けて配付された文書ではないかと推察されます。

実行委員に指名された5名のうち、八木は油小路蛸薬師上ルの友仙商、吉村は上長者町日暮西入ルの地主資産家、竹内は泉涌寺東林町の製針業、鎌田は八条猪熊東入ルの売薬化粧品商、伊藤は河原町蛸薬師下ルの印刷業です。伊藤を除く4名は木屋町・河原町の両通周辺に居住していないので、この問題の直接的な利害関係者とは言えません。よって、この史料から、20~21年にかけて、木屋町通よりも河原町通の拡幅が妥当であるとの意見が、木屋町通界隈の利害関係者のみならず、市会多数派の意見としてより重視されるようになっていたことがうかがえます。また、この問題を契機に、高瀬川を歴史的に由緒がある史蹟として整備保存しようとする気運が高まっていったことも読み取れます。

1922年6月9日の委員会では、河原町線賛成24票、木屋町線賛成13票の大差で、当初の原案通り、河原町線案が復活、可決しました。その結果を踏まえ、同年7月12日発行の『官報』の公告により、河原町通を都市計画道路として拡張することが正式に決定したのです。

【註】

(1)京都市の道路拡築事業とは、明治末期から大正初期にかけて京都市が実施した「三大事業」と呼ばれる都市整備事業の一つで、①第二琵琶湖疏水の開鑿と発電所の増設、②水道事業の創設と並び称された。未整備であった市内の道路を新たに幅員9間(約16.4m)~15間(約27.3m)に拡幅し、アスファルト舗装等により整備するもので、道路の中央に市電の軌道、その両側に自動車が往来する車道、さらにその両側に人が往来する歩道を設置するものであった。

(2)都市計画法は、1919年(大正8年)に市街地建築物法(現・建築基準法の前身)とともに定められ、翌年施行された。都市計画事業は内務省が所管し、内務大臣が都市計画を決定するにあたって審議を行う機関として、内務省内に都市計画中央委員会、各府県庁内に都市計画地方委員会が設置された。

(3)京都市区改正委員会は、京都市の都市計画について審議するため、都市計画法に基づき京都府庁内に初めて開催された委員会で、内務省都市計画局長の小橋一太を委員長に、内務官僚、京都府知事、京都市長、京都府会・京都市会から選出された都市計画委員、有識者等から成る27名で構成された。内務省が原案を提出し、それをもとに、都市周辺部への市街地の拡大を合理的に計画しようとするもので、用途地域の指定、都市周辺部への道路の新設延伸、区画整理・下水道整備等が決定された。第二回目以降は「都市計画京都地方委員会」に改称された。

(4)近代下水道とは、日常生活で生じる廃水、工業生産による工場廃水、屎尿、雨水等を、地下に埋設した下水道管に排水し、下水処理場に送水し、濾過・滅菌等の化学処理を施したうえで、河川に放流する下水システムのことを意味する。大正後期の京都市においては、近代下水道は未整備であったため、日常生活で生じる廃水、工業生産による工場廃水、雨水は溝渠を流れて地中に浸透するとともに、鴨川等の河川に直接放流されていた。そのため、河川や井水の汚染が、感染症等を引き起こす原因と見なされ、深刻な社会門題となっていた。

(5)史蹟名勝天然紀念物保存法は、現行の文化財保護法の前身の一つにあたる法律で、1919(大正8)年に公布施行された。20世紀以降、日本では急速に進んだ資本主義化により、鉄道や工場が各地に建設され、土地開発が盛んに行われた。それに伴い、史跡、名勝、天然記念物など、おもに土地に結びついた文化財の多くが破壊された。そのため、同法を施行し、内務大臣が、史蹟、名勝、天然紀念物を指定し、保存に関して地域を定めて一定の行為を禁止または制限したり、必要な施設の設置を命じること、また、地方公共団体を指定して記念物を管理させることが可能となった。

(6)内務省で開催する名勝旧蹟保存会とは、1919(大正8)年施行の史蹟名勝天然紀念物保存法に基づき、同年に制定された「史蹟名勝天然紀念物調査会官制」を法的根拠にしていると思われる。同管制に基づき内務省が選出した調査委員が内務省で会議を定期的に開き、選定すべき史蹟名勝天然紀念物を推薦したいたと推察される。なお、史蹟名勝天然記念物保存については、1928(昭和3)年以降、内務省から文部省に移管された。「高瀬川一ノ船入」が京都府の管理のもと史蹟名勝天然紀念物に指定されたのは、1934年のことであった。

【参考資料】

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【ホームページ版】(10ページ)

【回覧板】(4ページ)

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