第1号

発行日   令和3年3月9日

編集/発行 銅駝史料館委員会

史料館所蔵資料の再評価のために

-リレー連載を始めるにあたって-

田中 聡(立命館大学文学部 教授) 

 立命館大学教員の田中聡と申します。昨年から5名体制で本史料館の所蔵資料を調査させて頂いております。その経緯と史料館所蔵資料の全体像について簡単に説明します。

昨年(2020・令和2年)2月、井上館長から大学の同僚である私へ、史料館所蔵資料についてお話がありました。3月4日に田中・白木正俊・津田壮章・富山仁貴・須永哲思の5名が史料館委員の皆さんと会合をもち、ご意向を伺いました。来たる2023(令和5)年春の銅駝美術工芸高等学校の京都駅東側への移転を控え、現在の校舎をどう活用するか、地域で考えている。その際、付随する銅駝史料館の収蔵品がどうしてそこにあるのか、どういう意味を持つものなのか、今どのような状態なのかについて調べ、その価値を学術的に確認する必要があるとの意見が出、こうした資料に関する知識や調査経験が豊富な専門家に調査を依頼したいとのお話を頂きました。そこで、京都の近代資料や教育関係資料を研究している上記5名で「資料調査グループ」を結成し、今後定期的に史料館に通い、所蔵資料の整理・目録の作成を進めることとなりました。

 ご記憶の方もおありかと思いますが、現在の史料館所蔵資料については、第3代委員を務められた故・井川富夫氏が大変熱心に整理・管理されていました。氏は2008(平成20)年に委員に就任され、史料館内の全所蔵資料を改めて調査して「銅駝史料原簿」という目録を作成、独自の分類を行い、それに基づく「科目番号ラベル」を各資料の表紙に貼られています(2009年~)。銅駝中学校編『銅駝沿革史』(1969年3月)や中学校図書目録カードなどと自作の「原簿」を照合して、資料が現存するか否か、また破損状況などを一つ一つ確認され、2011年、ほぼ独力で「銅駝史料館縮小資料目録」を完成されました。資料のなかには長年の間に綴じ紐が切れたり、水を被ってページ同士が接着してしまったアルバムもあり、その一部は補綴・台紙へ貼り直すなどの補修もされています。またケースの中に紙コップに入れた防虫剤を置き、虫害から資料を守られました。井川氏はこうした地道な活動を2017年の退任まで続け、史料館に保管された資料の価値を記録するとともに、「史料館だより」で紹介されましたが、以後、史料館の資料は利用される機会もほとんど無いまま現在に至っています。

 井川さんの調査記録「銅駝史料館整理」等をもとに、現在の史料館所蔵資料の全体構成を整理すると、だいたい以下8グループに分けられます。

  A群は「銅駝中学校前史資料」(『銅駝沿革史』に明細あり)で、旧銅駝校(尋常小学校・尋常高等小学校・国民学校)から銅駝中学校に引き継がれた書類や教材です。学籍簿、舎密局関係資料、旧校門の門柱なども含まれるようです。尋常小学校時代の理科実験器具の一部は生祥小学校(中京区富小路六角下ル骨屋之町549)へ移管し、同校の閉校時(1992・平成4年)に学校歴史博物館へ移管したようで、備品移管書類のみが残っています。

 B群は「銅駝中学資料(ア資料)」「A資料」で、「銅駝中学篇希少価値」とも呼ばれています。銅駝中学校時代の各種資料で、長期にわたる学校日誌や古い教科書などがあります。     

 C群は「松本氏再調査の結果」 と呼ばれ、史料館の第2代委員(1986~2007年)だった松本清逸氏の調査で確認された資料のようですが、現時点では未確認です。

 D群は「寄付台帳」。学区の人々が篤志会を結成し、学校運営や現校舎新・増築のために寄付を行った際の名簿等で、尋常小学校時代以来の地域と学校の関係が分かります。

 E群は「谷政米穀店」。小吹氏(木屋町二条在住)が昔を回顧した文章で、井川氏が高瀬川・みそそぎ川・京電について書く時に参照した資料類です(未確認)。

 F群は「指物町」。学区内の指物町(さしものちょう)に関係する江戸時代以来の古文書で、河原町通拡幅の経緯や、それに関わる土地売買関係、街灯の設置図などがあります。

 G群は音声・映像資料今回、須永が紹介する銅駝中学校統廃合反対運動を記録した8mmフィルムなどで、多くは井川氏がCD・DVD化されています。

 H群は井川氏発見資料です。第三十一番組小学校時代に校舎の屋根に葺かれていた「卅一」銘の鬼瓦片や校長の勅奏判官礼服、「銅駝校」の扁額、中学校鍵箱、現校舎本館の棟札(1933年)、証書収箱、仮銘版(1947年)、小学校関連法規などから成ります。

 当資料が消失の危機に晒されたのは、先の大戦中から米軍占領期にかけての混乱期でした。渡邊雅之助(一保堂)・塚本儀助・柿本乙五郎・松井治助・片岡亀次郎・岩井の6氏は、銅駝国民学校にあった資料を分けてそれぞれの家に秘匿し、空襲と進駐軍の焼却処分から守りました。戦後も各家で保管されていたようですが、1968(昭和43)年6月に一保堂が倉庫を改築した折、茶箱5箱に収めた状態で残されていた分が、中学校に寄贈されA群となりました(他5家の資料は散逸?)。埜上衞氏(図書館学の専門家)指導の下、虫干し・分類整理され、中学校内の古い資料も加えて理科室にあった展示ケースに収め、旧生徒会室を改装した資料室で学区住民に公開されました【写真】。 これが現在の銅駝史料館の前身であり、1979年開館と共にこれら資料が史料館に収蔵されました。 

 調査グループは今後、各資料群の調査を進めますが、史料館委員会からのご依頼を受け、この「銅駝史料館だより」紙上にて、調査過程で再発見した、地域にとって重要な意味をもつ資料や学術的な価値が高い資料を順次紹介するリレー連載を始めさせて頂くこととなりました。記事を読まれ、関連する情報に気づかれた方、また資料がお手元にあるという方、ぜひ史料館まで情報をお寄せ下さい。また、破損や接着など状態が良くない資料に関しては中性紙で包むなど、可能な範囲で養生しますが、場合によっては今後の長期的な保存・管理を考え、専門業者に委託して修復や保存処置を行うよう提案させて頂く可能性もあります。

 ご理解の程、どうぞ宜しくお願い致します。  

銅駝史料館所蔵資料から見る銅駝中学校統廃合問題 

須永 哲思(京都外国語大学 非常勤講師) 

はじめに

 『銅駝中学校沿革史』(京都市立銅駝中学校編集兼発行、1957年、銅駝史料館所蔵資料)に所収された「座談会 創設の頃」には、1948(昭和23)年前後の銅駝中学校の開校(銅駝小学校の廃校)に際して、いわば「切腹も辞さない」という地域の人々の「学校」に対する強い思い入れをうかがえる「エピソード」が掲載されています。 

井宮〔満之助、初代銅駝中学校長〕:エピソードとして申し上げるのですが、この銅駝の校下に、渡辺〔ママ〕一保堂さんがあります。そこの御主人に渡辺辰三郎さんという方がおられました。〔中略〕新学制育成のためにやむを得ぬ措置として銅駝が中学校へ転用される実情を説明したのです、その時渡辺さんは「校長さん、あなた、この学校を中学校にしてみなさい。私は講堂の真中で腹真一文字にかき切って死ぬから、それ、あんた覚悟しないさいよ」という、こういう話やったんです。私は実際、その時の渡辺さんの気持になって考えてみて、いかにこの学校を小学校として永遠に発展させようかという意味で、京都市幾多あります小学校の中で先鞭をつけてこの立派な校舎をお建てになった校下の大功労者です。非常に苦心されてこの鉄筋の校舎をお造りになったという立場から考えてみたらごもっともだったと思います〔『銅駝中学校沿革史』66-67頁〕。 

 しかし、こうして開校された銅駝中学校は、その約30年後の1978(昭和53)年、再び廃校の危機を迎えました。同年2月頃から銅駝中学校の統廃合計画が持ち上がったことから、保護者ら学校関係者や地域の人々による反対運動―デモ行進(同年9月)や同盟休校(同年11月)など―が展開されたものの、1979年には正式に銅駝中学校の廃校が決定、1980年に京都市立銅駝美術工芸高等学校が開校することになりました。 

◇銅駝史料館所蔵「銅駝中学校統廃合問題」資料群について

 銅駝史料館には、この1978~79年の「銅駝中学校統廃合問題」に関する歴史資料約40点(1つのファイル内にさらに多数の資料が綴じられているため、実際の資料数は1000点ほどか)が所蔵されています。この中には、反対運動の際に使用されたタスキや横断幕などの実物資料、デモ行進を録画した映像資料など、当時の貴重な資料が数多く含まれます。

 当時の主要新聞でも統廃合問題は盛んに報じられましたが、史料館所蔵の資料群は新聞報道ではわかり得ない次元の情報を豊富に提供してくれます。いずれも銅駝史料館だけが所蔵し、歴史資料としての価値やオリジナリティは高いです。また、「学校の統廃合」や「同盟休校」というテーマは、地域社会と教育・学校のあり方に深く関わるものであり、銅駝地区という地域の独自性の一端を解明できると同時に、他の地区・地域にも共通するテーマとなります。史料館所蔵資料にそくして中学校統廃合問題を改めて考えることは、今日なお現代的な意義を有し、将来の銅駝地域のあり方を考えるうえで示唆に富むと考えます。 

◇映像資料「銅駝中学を守る会統廃合反対デモ」

 史料館所蔵資料の一つに、映像資料「銅駝中学を守る会統廃合反対デモ(映像のみ)」が残されています。この約19分の映像は、1978(昭和53)年9月12日に行われた京都市役所へのデモ行進を記録したものです〔銅駝自治連合会所有ノートPCで閲覧可能〕。

まず、冒頭の1分ほどが学校の景観・校舎外観の映像、続いて鴨川東岸からの校庭の様子、校庭の生徒の姿と続き、3分目から学校の掲示板に貼られた横断幕(「銅駝中学廃校絶対反対!!デモ行進」)が映っています。その後、校舎にかけられた垂れ幕・横断幕の映像が続きます。デモは5分20秒から始まり、集合場所の梨木神社で「育友会」「守る会」のタスキを掛けたデモ参加者が、7分前後からプラカードやノボリを持ってデモ行進を開始。河原町を通って京都市役所南東側で御池通を横断して四条通に向かい木屋町通・二条通を迂回して、市役所前に到着(16分50秒)、参加者が正面玄関から入っていくところで、映像は終わっています。

 この映像資料と照合することが可能な資料に、1978年9月8日「集団示威運動許可申請書」(銅駝史料館所蔵資料「銅駝中学統廃合問題資料」No1所収)があります。京都府公安委員会・中立売警察署からデモ行進の許可を得るために取り交わされた資料だが、デモ当日の日時(9月12日10時半~12時)や行進ルートを裏付けることができます。

こうした資料群を付き合わせて相互に読み解くことで、運動に参加した地域の人々が何を考え何を想っていたのか、状況の変化や様々な悩み(時に対立や葛藤を含む)の中で「なぜ」「どのように」運動を進めていったのかを歴史的に辿ることができます。今後も、さらなる資料の整理・調査に励みたいと考えています。 

無断転載・複写を禁じます

『銅駝史料館だより』第1号のPDF版(4ページ)

 注意:Internet Explorer11では表示できません。